• 2016/07/31 社会

    LGBT(社会的マイノリティ)の人たちとの接し方から考える「道徳」の重要性

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こんにちは、櫻學舎の高橋です。

今月の5日に、昨年8月に、友人に自分がゲイであることを他の友人に暴露されて自殺したとした法科大学院生の訴訟事件の第一回口頭弁論が東京地裁で開かれました。

この事件から、現代の若者の友人との付き合い方、LGBTの人との付き合い方を考察していきたいと思います。

事件背景

すでにほとんどの方が知っているかとは思いますが、改めて事件の背景を説明します。

事件は昨年の8月、一橋大学の敷地内で起こりました。

とある男子生徒が同キャンパス内にある校舎の6階から飛び降り自殺をしました。

その学生は、現在はLGBTと呼ばれることも多くなりましたが、同性愛者の一人でした。

事の発端は同年の4月に、自殺した男性が交友関係を持っていた友人に恋愛感情を抱き、告白したことから始まります。

その友人は、戸惑いつつも誠実に断ったとありますが、その後自殺した男性も参加しているLINEグループにて彼が同性愛者(ゲイ)であることを暴露しました。

そのLINEグループのやり取りが下記のものになります。

友人:「おれ、もうお前がゲイであることを隠しておくのは無理だ。ごめん。」

本人:「たとえそうだとしても何かある?(笑)」

「いじめと同じだ」という意見も

この事件は様々なメディアで取り上げられました。

一部では「いじめと同じだ」という意見もありますが、ぼくはその意見に賛同します。

むしろいじめより悪質かもしれません。

そもそもいじめとは「肉体的、精神的に自分より弱い立場の者を苦しめること」です。

最近では通信産業が発達したこともあり、肉体的いじめよりもLINEや他のSNSを利用したいじめが横行していますが、この事件の悪質な点は、本人の存在を否定するかのような発言にあります。

友人:「おれ、もうお前がゲイであることを隠しておくのは無理だ。ごめん。」

本人:「たとえそうだとしても何かある?(笑)」

このやりとりをもう一度見返してみてください。

この件は「明らかに」本人への配慮を欠いた発言です。

最初の友人のLINEは12:32に送信され、その8分後に本人からの返信がありました。

この8分という時間は、返信する時間としては比較的普通の間隔だと思いますが、おそらく本人にとってはすさまじく苦痛で、人生がひっくり返るような耐え難い時間だったでしょう。

「たとえそうだとしても何かある?(笑)」

平静を装って返信しているようにも見えますが、おそらくこの時彼の手は震え、動機も激しくなり、現実だとは信じたくない中でやっと振り絞った言葉だと思います。

この一件は、他者への配慮を欠いた完全なる「いじめ」に値すると思います。

「想像力の欠如」という声もあるが

自殺した本人は法科大学院に通う25歳だったそうです。

恐らくその友人も年齢が近い同世代だとは思いますが、「想像力の欠如」というよりも人間としての「社会性」が欠如しているとしか考えられません。

当櫻學舎は小中高生が通う学習塾ですが、中には小学生でありながら大人よりもしっかりしている子どももいます。

人が人間社会の中で社会性を身に付けるのは環境要因が大きいですが、おそらくこの友人には社会性を身に付けさせてくれる環境がなかったのでしょう。

上記のやり取りを見ると、大学生特有の、いわゆる「ノリ」で他の友人の笑いを取ろうとした発言のようにも見えます。

ぼくは、この「ノリ」というのがあまり好きではありません。

当然、全員に害がなくみんなで盛り上がれるような内容であればある程度の「ノリ」は必要だとは思います。

しかし、中には自分のことしか考えず、他者への配慮無しに失礼な発言をする人も中にはいます。

ただ、この件でいえば、25歳という年齢はまだ学生という身分といえど立派な大人です。

恐らくこの友人は学生という身分に甘え、他者への配慮という社会性を身に付けること放棄した人間だったのでしょう。

「LGBT」の人と接するにはどうすればいいのか

LGBTは女性同性愛者(レズビアン、esbian)、男性同性愛者(ゲイ、Gay)、両性愛者(バイセクシュアル、Bisexual)、性同一性障害者(トランスジェンダー、Transgender)などを意味する言葉であり、最近はこのLGBTの人に対する理解も広まってきたように感じますが、それでもまだまだ偏見や蔑みは多いと思います。

では、LGBTの人とはどう接すればいいのでしょうか?

簡単です。

相手も自分と同じ一人の人間として尊重して接すればいいだけです。

特に、日本人は単一民族国家だからか、他者との違いに寛容ではない部分があります。

人より色が白い、背が低い、太っている、趣味や思考が人と違う。

これらはただの「違い」です。

もっと言えばその人の個性です。

LGBTの人たちも、彼らの思考・趣向は単なる個性にすぎません。

最近になってようやく社会的マイノリティの人たちへの理解が進んできたようにも思いますが、そもそもマイノリティだからと言っていじめの対象になるのはとても悲しいことだと思います。

多様性を認めることが今後の鍵になる

日本は単一民族国家だと言いましたが、今後は他社との「違い」を積極的に認め、多様性を意識していかなければならないと思います。

私は過去にタイに行ったことがありましたが、そこにはタイ人だけでなく様々な人種の人たちがいました。

カオサン通りというバックパッカーの聖地と言われる通りに行ったのですが、白人、黒人、アジア人、それぞれ人種関係なく共に楽しい時間を過ごしているように見えました。

その中では人種差別も偏見もありませんでした。

私たちは同じ日本人です。

同じ日本人なのに差別や偏見があるのはとても悲しいことです。

「相手を尊重する」

難しいことではないと思います。

無理に仲良くしようと言っているわけではありません。

相手も自分と同じ一人の人間だということを理解し、自分がされて嫌なことはやらない、これだけで救われる人もいます。

互いが互いを認め合えれば、もっといい社会を築くことができるのではないでしょうか?

「道徳」の授業こそ必要なのではないか

この「多様性」を認めるために今後鍵になってくるのは「道徳」だと思います。

人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。

goo国語辞典

私は小学校の頃、道徳の時間が好きでした。

道徳には「答え」がないからです。

例えばクラスを二つのグループに分けて、あるテーマについて語り合ってもらいます。

例えば18歳の選挙権について賛成か反対かというテーマだとします。

この時に大事なのが、賛成の人でもあえて反対側のグループに班分けさせることです。

本当は賛成でも反対の意見を述べなければならなくなります。

こうすることで、自分の考えだけに固執させず、反対派の立場でも物事を考えるような思考を身に付けることができるようになります。

私はこの時間が大好きで、あえて自分とは違う意見の班に入って意見を述べていました。

この時に学んだことは、「自分の考えに固執しないこと」、「どんな悪いものでも探せばいいところはある」ということでした。

「道徳」には答えがありません。

答えを見つけるのは自分自身だということを学ばせてくれます。

2018年から全国の小学校で、2019年から全国の中学校で道徳が教科化されることになります。

昨今のいじめ問題を受けてこの教科化が取り決められたという背景だそうですが、ぜひ、この取り組みがプラスの方向に転じて、互いを認め合える「多様性」のある社会になってほしいと思います。

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